当社の創業者である梅尾覚七は、1931年(昭和6年)に、福岡県飯塚市吉原町で個人の木材商梅尾覚七商店を始めました。 当社はこの年を創業としています。
福岡県朝倉地方から現在の飯塚市八木山に出てきた覚七は、博多か飯塚での商売を志し、 当時炭鉱で栄えていた飯塚へ行くことにしました。それは、炭鉱の坑道を支えるための木材需要があったことも理由の一つで あったようです。
残念ながら、創業から1950年(昭和25年)の当社の前身である大和木材興業株式会社設立までの詳 しい記録は、現在残されていません。 唯一、1980年(昭和55年)に発刊された創立30周年誌に、当社元常務取締役 中山英太郎(故人)氏が寄稿した「会社創立前迄の思い出すまま」が、当時を語る資料として残っておりますので、一部抜粋 して掲載し創業当時の記録とさせていただきます。
創業者 梅尾覚七
前常務取締役(当時)
中山 英太郎
私と前社長(梅尾覚七)との因縁は日支事変の頃であります。 その年の昭和12年7月、盧溝橋事変が勃発し、秋の彼岸花 が咲いて居た頃、八木山の義兄(梅尾 武)が出征し、杭州湾上陸と日支事変も拡大していきました。其の後召集は頻繁になり、 山仕事をする人はなく女と老人となって仕舞いました。 私は、前社長より再三再四の懇望により、福博電車会社を辞職して飯塚 に来ました。
昭和14年3月頃、当時社長は人を月給で雇うのは初めてで、月給を支払うためには酒と煙草を止めて努力すると愛宕神社に願を 掛けられ、私がその証人となりました。 吉原町に小さな借家を借り、其の間に幸袋110番地、現在城石スタンドの実家のある 場所に、杉皮葺の倉庫を建て、其の管理人として私が引越して来ましたのは、昭和14年6月でした。
八木山の叔母に手伝って貰い、リヤカーで家財を運び、屋根も壁も杉皮張りの小さな事務所と一間の居室で、倉庫の中に炊事場を 取り込んだものでした。 当時、郷ノ原(篠栗)に素晴らしい杉山を購入していました。しかし、山が険阻で「飛すだ」で出すの は初めての経験で、なかなかうまく行かず随分苦労しました。社長も毎日バスで通勤し、私は八木山泊まりでした。 現場には移動 製材機を持ち込みました。ヤンマーの56型ディーゼルです。機械は借り物、製材職人一人付で、私が向取り、女性の人夫を現地で 二人位雇い、約2年間位次々と山を廻りました。
昭和16年3月頃、幸袋町に、麦が15糎程伸んでいた田を借り製材工場を建てました。当時炭鉱で売出し中の北代角之助氏に土地 の世話をして貰いました。工場は、4間×7間の瓦葺、丈夫な柱で当時は評判でした。当時の機械は移動製材機でした。 其の間に、 隣の横山鉄工所に注文して丸鋸1台を据付けましたが、戦争でベルトが無く、幸袋工作所の倉庫係の人に頼み込んでやっと試運転に こぎ付けました。天気の時は山行き、原木が溜まって注文が来たら製材という程度で、職工も良い人がおらず、苦労の末、私が習っ て製材をすることになりました。全くの盗み覚えでした。今の会社(当時)の5寸角柱は、私の手形です。 運搬のトラックは、車 に潤野の渡辺トラックを良く使いました。終盤は木炭車となり、扇風機でブウブウブウと炭をおこして走ったものです。
日支事変は大東亜戦争となり、木材も統制となりました。原木は、山元で素材、製材品も検査を受けねば出荷出来ない状況になり、 火急の注文には随分苦労しました。 愈々終戦近くなると、電力を軍需工場に取られて昼間は製材出来ず、夜間になって製材しました。 其の後、炭鉱電力を引き込み、やっと昼間製材をしました。 戦局は愈々不利、本土決戦態勢となり、兵隊が学校等に泊り込み、民家 の馬車を使って公有林や私有林等を切り出し、工場も常時見習士官以下4~5名の兵隊が来て、防空壕の材料挽きばかりをしました。 隣組からも毎日2~3人ずつ勤労奉仕隊が来て居ました。半徴用工場でした。
昭和20年8月15日、終戦を迎えました。戦後は工場を2階建てにして、2階に下駄工場を造りました・・・。 以上、思い出すままに、 当時を懐かしく想い出しながら記述致しました。 今後、大和興業㈱の、全員一致し、更に発展して行く事を望み、私の思い出話を終わります。
1950年(昭和25年)8月9日、梅尾覚七、梅尾嘉孝、中山英太郎、友成春雄、江川扨が主な発起人となり、資本金100万円で大和木材興業株式会社を設立しました。 社名は、創業者梅尾覚七が提唱した、大きく和していく、という会社設立の精神に由来しています。1970年(昭和45年)8月9日の会社設立20周年記念祝賀会で、 当時社長だった覚七は、挨拶の中で次のように述べています。「私個人経営の小さな材木屋を、同志の協力を得まして此の会社に改組したのでございましたが、厳しい業界 の荒波は容赦なく小企業の私共に幾度も打ち寄せて参りました。もう駄目かと云う様な危機もありました。然し、幸いにして当会社設立精神とでも申しましょうか、社名の如 く大きく和すると云う気持ちを、全員堅持して呉れまして一丸となりその難関を突破して参りました。今日の大和木材興業株式会社の発展は、此の和に尽きると申しても過言 ではありません。和とは心の集い、一致協力、助け合う気持であると信じます。この精神は、現在も社員一人一人の中に息づいており、継承していかなければいけません。
大和木材興業株式会社設立
創業者 先代 梅尾 覚七が提唱する
大和の設立精神
会社の流れを年代ごとに大別すると、昭和20年代は模索の時代で、木材販売のほか、杭木・パルプ等も納入しながら個人時代の延長でした。昭和30年代は、立木を購入 して業績も出始め、木材業界に頭角を現わして来ました。昭和40年代になり、飯塚市吉原町に大和ビルを建設し不動産賃貸業を始めました。また、飯塚市幸袋の製材工場 のオートメーション化や、柳橋での筑豊園芸市場の開業、筑紫野市の土地購入や粕屋郡粕屋町の鉄工所を買収しての鉄工部開設等、業容を拡張しました。そして、木材販売 の流れから木造住宅建築を手掛けるようになり、社名を現在の大和興業株式会社に改め、本社を吉原町から幸袋へ移しました。
1973年(昭和48年)のオイルショックの翌年、1974年(昭和49年)2月に創業者の梅尾覚七が78才で没し、梅尾嘉孝が二代目の代表取締役社長に就任しました。 昭和50年代は、建設業のウエイトが増し、筑豊地区において本格的に建売住宅の販売に力を入れた時期でもあります。年商が飛躍的に伸びたのもこの頃で、1980年(昭和 55年)には木材価格の高騰という要因はあったものの、2,250,000千円の年商を達成しています。
創業当時の大和興業
会社設立当時の本社事務所並に倉庫
( 飯塚どんたく )
昭和30年12月 本社新築完成